福井崇時プロフィール
大正12年(1923年)8月19日大阪市で出生
大阪市立精華小学校 昭和6年4月入学(越境入学)、昭和11年3月卒業(2.26事件の年)
参考のため
この小学校は明治5年8月創立、昭和5年7月完成した鉄筋コンクリート建、地下1階の4階建て、20人乗りエレヴェーター2ヶ所、全館スチーム暖房ラジエーター設置、グランドピアノが音楽教室、講堂、 雨天体操場、併設幼稚園夫々に1台、計4台、理科教室、図画教室、工作教室、作法教室の特別室、地下室を除き全館板張り、定期的に油引き、生徒の机は膝の高さ、座高に合わせて調節される 学期の始めに校務員さんが生徒一人一人の体格に合わせて調節されます 同期の有名人は地歌舞の山村樂正(5年前に死亡)敗戦後、市の娯楽の施設として講堂で落語会等が行われた 周囲の店舗が復活し児童が増えて小学校は再開されたが、店舗は概ね朝方迄働くため、子供が登校する時間には親は朝飯を用意できずに眠っている者が大勢いた父兄達はこの子達へ朝の給食を与えることにした 30年程前に廃校となる 児童数が減少し2部教育になったが更に児童数が減り周囲の2校とも廃校し3校が合体した
大阪府立住吉中学校昭和11年4月入学、昭和16年3月卒業
同年4月鹿児島の第七高等学校造士館理科甲類入学 昭和18年9月卒業
昭和17年東条政府は高校等の就学期間を6ヶ月短縮する法律を施行し、卒業が9月となった
鹿屋の海軍飛行隊から士官への勧誘のための見学体験を言ってきた 参加した ハワイを攻撃した魚雷攻撃機と同じ機に乗せてもらった 我々の世話を担当した東京の私学を中退し士官になった少尉が「君達が来る所ではない」と強い調子で言った
七高時代のことは「人間形成の七高時代」に記述
昭和18年10月に学徒動員令を施行し徴兵延期の特例を排し文系、農学系の大学生は軍隊へ、理系の学生は卒業迄入営延期ということで、一斉に徴兵検査を受けさせられ昭和18年12月の学徒出陣となった
昭和18年10月 大阪帝国大学理学部物理学科入学 入学願書受付後に定員が4名増となり、願書を出していた者の人数が丁度旧定員数だったので無試験入学となった 残余の枠は追加募集で試験が行われた
軍事教練があったが、我々徴兵検査後にもらった入隊先は全員歩兵の連隊ではなかった 教練は歩兵の訓練 配属将校に教練の時間に勉強をしたいと申し出た 我々に理解がある将校だったので、教練の代りに先生方の戦時研究の手助けをすることになった その結果、仁科博士の二号研究の阪大分室担当の奥田毅先生のもとに参加した この件は”技術文化論叢”第7号、2004年、に「理研ニ号研究阪大分室について」に記述
研究分野:宇宙線・素粒子物理実験
職歴
昭和21年9月阪大理学部副手、24年6月助手、33年11月講師、34年4月名古屋大学助教授、37年5月教授、62年3月定年退官、62年4月椙山女学園大学人間関係学部教授、平成6年3月定年退職
昭和55年10月—59年9月名大学生部長
昭和37年7月—38年10月セルンCERNの研究員、
38年10月—42年9月シカゴ大学フェルミ研究所客員研究員、
47年7月—48年8月と61年7月—9月カナダ、オタワ、カールトン大客員教授、
55年11月—61年12月米国ロス・アラモス研究所客員研究員
放電箱開発の経緯は、京都コンピューター学院の機関誌 アキューム Vol.5 1993 pp.41-45 に記載
放電箱の発明に対し、昭和36年度仁科記念賞、昭和37年度朝日賞(文化賞部門)を宮本重徳と共に受賞
昭和60年11月紫綬褒章(早川さんより先に受章し、気まずくなった)平成5年11月勲三等旭日中綬章
イタリアの主として物理学者との交流組織、日伊科学フォーラムを豊田利幸先生がイタリア大使館の協力の下に1978年1月に設立し、事務長を任された 豊田先生が死亡され二代目の会長となったが、今は阪大核物理研究センターの中野貴志教授が会長、福井は名誉会長、会については、次のホームパージを見られたい
http://www.rcnp.osaka-u.ac.jp/~ijsf/
平成13年イタリア共和国功労賞コメンダトーレCOMMENDATORE三等騎士勲章授章
著書:粒子物理計測学入門(共立出版)、身近な物理の世界(講談社サイエンテイフィク)