“知”の教育より”智”の教育を
中井浩二
体験的科学技術論を著して、タイトルにモラル(moral)とモラール(morale) という言葉を使ったところ、幸いなことに多くの方の共感を呼ぶ結果となった。自分でもこの言葉を何度か考えているうちに気づいたことがある。
今日の社会でおこっている諸問題の源には、”モラル(道徳・倫理)”の欠落と”モラール(士気・やる気)”の低下がある。どちらも解決すべき大きな問題である。この中で”モラル”の欠落は規則を厳しく、規制を強くするなどの方法でとりあえずは対処できる。ところが、”モラール”の低下はそんなことでは救えない。しかも”モラル”の欠落を防ぐ教育が”モラール”の低下を招く。尼崎におけるJR西日本の事故の教訓はそれを明らかにしている。
“モラール”の低下を救う道は教育の見直しである。もっと心に深く入り込む教育が必要である。ここで、私の耳の奥から「”知”の教育と”智”の教育」という言葉が聞こえてきた。知識の教育と智慧の教育である。どちらも大切である。しかし、近年の教育は”知”の教育に偏っている。小学校から大学まで、こどもの教育から社会教育まで片手落ちの教育観がはびこってってしまった。”知”の教育では、モラールの低下は救えない。
では”智”の教育とは何かと考える時、伊達宗行先生の論文「アルスの崩壊-理科教育の視点」に巡り会った。先生は、かつて一体であったアートとサイエンスの合体によるアルスへの回帰を提言して居られる。この精神に基づいて教育を考える時、一つの答えとして”智”の教育に辿り着く。アートとサイエンスに共通する感性、レオナルド・ダ・ヴィンチやガリレオをアルスにかき立てた動機は、創造の喜び、遂行の喜び、そして達成の喜びであろう。企画・実行・完成の過程を通じての喜びは、芸術家も、科学者も、探検家も、或は、料理や、農作業など”つくる仕事”に従事する全ての人に共通である。”智”の教育は、その喜びを教えることにある。
方程式の解き方を教えるだけではなく難問を解いたときの喜びを教える。実験の手法を教えるだけでなく実験を成功させた時の喜びを教えることである。画家が大作を描きあげた時、登山家が高山の頂に立った時、料理人がテーブルに料理を並べた時、お百姓さんが秋の田に実る稲穂を見渡す時、共通に覚える達成感こそが”智”の教育のめざすものである。その「喜び」が文化の源泉である。「文化としての学術」を護る原点と言って良いであろう。もっと”智”の教育を徹底させよう。
大学における「”智”の教育」
全国の大学で、ユニークな教育によって学生や生徒を魅了し実力を育てて居られる「”智”の教育者」の御努力を発掘して紹介する。会友をはじめ全国の識者に自薦他薦を求めて見つけ、インタビューや推薦文などによって紹介する。研究・教育に従事する人たちにとって参考になることが多いほか、進学希望者のガイダンスの役割も大きいと考える。ホームページを広く宣伝し、機を見て出版することも考えられる。
社会に向けた「”知”と智”の教育」
全国に理工系だけでも150を超す科学博物館が進めている事業の中から、特徴のある教育を採り上げ紹介する。大学や研究所などが行っている夢工房や市民講座なども注目したい。
「遊学塾」構想の提案
かつて、吉田松陰が始めた小さな「松下村塾」がついには日本の体制を変えた歴史があります。また、後になって、松下幸之助が「松下政経塾」を作ったのも、松下村塾のような将来を語れる青年の塾を作りたいという考えによるものであったと聞いています。「アルスの会」も学術の将来を担う青年を育てる事業として「塾」を作ることを提案したいと考えます。
「真に学問を志す若者」を育てる努力が必要であります。それには若者が自分の将来を考える時期を迎える学部から博士前期課程の学生或いは高学年の中高校生に対する教育が重要です。彼らに対しては、学問の面白さを訴えるばかりでなく、その喜びを体得させることが大切であると考えます。 「真に学問を志す若者」を育てるには学問をやさしく説くだけでなく、むしろ、難しい課題に挑戦し、それを解決したときの達成感を体得させることが大切であります。 知を学習させるのではなく、智を体得させる教育が大切であると考えます。