同友会発起人 中井浩二 :nakai@post.kek.jp [@を半角に変えて下さい]
アピール: 文化としての学術を護る(中井浩二)
科学技術基本法制定直後の1997 年5月に「21世紀の学術と科学技術」と題する リンクス・リセウム シンポジウムが開催された。参加者は新しく展開する科学技術政策に期待を抱きつつ、一方で、従来の研究者主導の下に進められて来た学術政策の将来に不安を感じていた。シンポジウムでは、特に学術の文化的・精神的側面の重要性が強調された。
それから10年が経ち,二期にわたる科学技術基本計画の実施によって研究の活性化は国策事業として一定の成果を挙げている。しかし「文化としての学術」
に対する施策は如何であろうか?
理科系・文科系を問わず当該分野の研究者には不安が広がっている。国策的な視点に重きを置く新体制の下では研究者の意見・意思を反映するルートが著しく狭くなっている。「民」の意見を汲み上げ活かす組織の育成が強く望まれる。
斯かる状況を打破し「文化としての学術」を護るため、学術文化同友会を創設したい。同友会は会友による自由で健全な意見の交換・討論の場を作り、建設的
な問題提起・提言をまとめて社会に訴える力を持った組織に育てたいと考える。 同志の方々の積極的な参加を期待する。 (同友会発起人:中井浩二)
アルスへの回帰(伊達宗行)18世紀初頭までは、サイエンスもアートも無かった。これらは全体としてアルスと呼ばれていた。しかし、科学が専門化して異常な成功を収め、産業革命 によって社会構造までが変わった時、アンチテーゼとしてアートが生まれたのである。 (伊達宗行「アルスの崩壊」東北大出版会会報 1997年3月)科学が地球をも変えられる、となった今日、“科学者による自己最適化”はもはや許されなくなった。 科学全体がアルスへの回帰を考えるべき時期に来ていると思う。それが、「文化としての学術」という、すわりの悪い言葉に対する提言である。 (特別会員: 伊達宗行) |
学術文化の薫り
学術文化の薫りを求めて (中井浩二)
Part I. J.J. ルソーの「学問芸術論」に基づく文明批判と「アルスの会」の基本精神
– 京都•仙台のアルスタウンミーティングの主観的まとめ –
Part II. わが国の学術行政:過去の総括と未来への期待
– 第3回アルスタウンミーティングの計画 (企画中)
はじめに
学術文化同好会「アルスの会」を立ち上げて4年になる。WEBを用いた情報交流、意見交換の場として活動を組織しようという当初の考えに基づき、例えば「アルス文庫」のように会友の支持を得て充実してきた。一方、電子媒体だけの活動だけでは会友間の心のこもった交流に限界が感じられこともあるので日本物理學会等の機会を利用して「アルスタウンミーティング」も企画してきた。
今年は、特に、タウンミーティングに力を入れることを心がけて「学問•芸術と社会」というテーマで、京都、仙台、東京の3地域で開くシリーズのミーティングを企画した。今年は、ルソーの文明批判を中心に学術研究の在り方を考える会とした。
学問・芸術 と 社会 : アルスタウンミーティングの主題 J. J. ルソーは、フランス, ディジョンのアカデミーの1750年度懸賞論文に応じて「学問芸術論」を発表し、一躍有名人になって、思想家としての生涯を過ごしました。 岩波文庫にも収録されているこの小論文は、ルソーの思想の起点となりました。そこに述べられたルソーの考えは、その後に起こった産業革命が拓いた文明に対して 批判的でした。 アカデミーの懸賞課題は「学問と芸術の復興は、習俗の 純化に寄与したか」ということでした。ルソーはこの課題 に対し否定的な論を展開しています。すなわちルソーは 学問や芸術の進歩は奢侈・退廃を招き、徳の喪失を招くと 論じました。ルソーの論は18世紀 以前の歴史に基づいていますが、読んでいるうちに21世紀 の今日に体験している状況の批判を聞かされているように 感じました。「知識よりも徳を重視する」ルソーの精神は、 「文化としての学術を護る」という本会の精神とよく重なり 合っています。 「徳」が消滅する「魂」が腐敗するというルソーの指摘は まさにわれわれの目の前の世界に当てはまることです。 タウンミーティングで意見を交わしたいと思います。 (中井浩二) |
Part I. J.J. ルソーの「学問芸術論」に基づく文明批判と「アルスの会」の基本精神
京都•仙台のアルスタウンミーティングの主観的まとめ
21世紀、科学技術基本法の下でわが国の学術はどうなるのか?と心配し、学術文化を護ろうと考えて同友会の活動を始めたのに、今日の大学は、そして研究と教育は、どうなったのであろうか?
独立法人化したどこの大学でも教授は忙しいと言う。何に忙しいのかと問うと研究費の獲得、その報告の作成、に追い回されている始末である。教育についても同じである。教授が忙しくて学生と共に生活する機会が極度に少なくなっている。学生の方にも原因はあるが、学生との人間的なつながりを失っては心の通った教育はできない。
科学技術基本法の制定以来、政府の科学技術に対する投資は膨大なものになった。それにも関わらず大学の現状はいかがなものであろうか?困ったことである。そう思っていたときに、ふとしたきっかけで国際高等研副所長(当時)の中川久定先生に教わって、J.J.ルソーの思想を学び「学問芸術論」を読んだ。
I-1. J.J.ルソーの第一論文「学問芸術論」(前川禎一郎訳:岩波文庫)
「学問と芸術の復興は、習俗の純化に寄与したか」という課題でフランス, ディジョンのアカデミーが募集した1750年度懸賞論文にルソーが応募し当選したこのルソーのこの論文を読んで、かつてない興奮を覚えた。ルソーはアカデミーの課題に対し否定的な論を建てている。ルソーの論文の前川禎一郎訳(岩波文庫)から文章の一部を抜粋すると、
*「学問芸術の光が地平にのぼるにつれて、徳が逃げてゆくのがみられます.」
*「われわれの学問と芸術とが完成に近づくにつれて、われわれの魂は腐敗したのです.」
*「生活の便宜さが増大し、芸術が完成にむかい、奢侈が広まるあいだに、真の勇気は萎縮し、
武徳は消滅します.」
など、
言葉の一つ一つが新鮮な響きをもって心に伝わり共鳴する感動をおぼえた。これこそまさに現在のわが国の科学技術行政に対する警告であり、「アルスの会」が求めている精神であると思った。
翻訳者が解説で述べているように、知識よりも徳の重視、教育の改革、奢侈と不平等への敵意、原始状態への憧れ,社会を圧する腐敗と滅亡の脅威、などルソーの思想の萌芽がほとんどすべてこの論文に現れている。ルソーのこの論文は、その後の数々の論文「人間不平等起原論」「社会契約論」「エミール」などの起点となり、フランス革命を始めとする思想の原点となった。
I-2 18世紀におけるフランス思想の転回
中川先生は、1750年を境とするフランスの思想•心性の転回についてお話し下さった。
先ず、先生はD.ディドロの話から始められた。ディドロはダランベールと共に「百科全書」の編集を引き受けていたが、「内科医と外科医の不和」をとり上げて運動をおこし、その争いの中で投獄されその後も軟禁されたというお話であった。ディドロは、その間にギリシャ語で書かれたプラトンの「ソクラテスの弁明」をフランス語に訳した、というお話もあったが、ディドロのお話のもっと大切な部分は、仙台のミーティングになってから良く理解できた。これは後に論じる(I-9)。
次にルソーの話に移る。ルソーの懸賞論文受賞が決まったのは1750年7月10日であった。
論文はジュネーブとパリで出版され、多くの読者を集めた。ディドロが「百科全書趣意書」をまとめたのもその年の10月であった。ルソーは、アカデミーの懸賞課題に対し、はじめは肯定的な内容の論文を構想したが、それでは平凡でダメだとディドロに言われ、否定的な論を展開したといわれている。
中川先生は、ルソーについて感覚的•情緒的で矛盾に満ちている、その思想は、人を感動させるが危険が潜んでいる、と注意された。ルソーの没後に起ったフランス革命のときに山学派を率いたロベスピエールは、ルソーの信奉者であった。ルソー的人民主義は恐怖政治の引き金となっていた。しかし、時代を開くリーダーは常に危険を伴っている。中川先生の著書「甦るルソー」に引用されているゲーテの言葉「ヴォルテールは終わり行く世界、ルソーは始まりゆく世界」は的確にルソーを捉えていると思った。
I-3 産業革命の功罪
中川先生は、ルソーの考えは産業革命に対し否定的であるとお話になった。
ルソーの論文の素材は、18世紀以前の過去の歴史によっている。エジプト、ギリシャ、ローマ、東ローマ、ペルシャ、スキタイ、ゲルマン、• • • の歴史であった。
彼は、王侯や貴族,或はそれ以前からの聖職者•僧侶が築いてきた文化をとりあげて論を立てている。ところが、ルソーがその第一論文を書いていたとき、その十数年後に始まった産業革命のことは知らなかったわけである。それにも関わらずルソーの論じたことは、産業革命以後現代までをまるで見てきたように的確に予言している。
しかし、われわれはルソーが知らない近代の歴史を知っている。産業革命の結果、夏目漱石を悩ませたロンドンの公害、第一次大戦の兵器開発による破壊と大量殺戮、第二次大戦の原子爆弾の悲劇、など、数限りない例を挙げることができる。社会の腐敗、人類の滅亡の危機に襲われてきた。一方、それらの中で進歩した科学技術は人類に便宜を与え、豊かさを生んできた。内燃機関、自動車、電動機、電車、電子技術、核エネルギー,核医学・・・などはその例である。ルソーはそれさえも、人間の徳を消失させ、真の勇気を萎縮させていると言うのであろうか。科学技術を志し、推進してきた人たちには反論したくなる議論である。
ルソーの論文は高い評価を受けたが、科学が成熟していない時期にそれを評価して否定的なことを言える状況に無かったことには注意すべきであろう。軍事のために開発された航空機や電波技術が社会に貢献していることを、ルソーはどう考えるであろうか? そして、われわれはどう考えるべきであろうか?
ルソーの考えは前時代的で批判されるべき要素が多いとしても「知識よりも徳を重視する精神」は時代を超えた普遍的なものであると考える。産業革命が拓いた19~20世紀の社会では、学問や芸術は産業・軍事を支える政治・経済の支配に強く影響されてきた。このままでは21世紀の社会も同じことが続くことと思われる。
21世紀の今日、われわれは更に新しい進展を見ている。素晴らしい科学技術の発展に目を奪われる日々を体験している。しかし、この日常的な体験の中で、ルソーの論文を読むと,ルソーが提起した問題が鏡に映し出されるように次々と浮かび上がってくる。科学者の「徳」が薄れている。科学者のこころが蝕まれている。
I-4 V.F.ワイスコッフのことば:学問•芸術の社会貢献
ルソーの考えが学問芸術の社会への寄与について否定的であるように思うのは誤りである。
学問芸術と社会の関係についてルソーの論文に沿って論じてきた内容には、学問芸術の人類に対する重要な寄与が全く抜けている。それは、学問と芸術は人間の昂揚心を刺激し、その精神を高めることである。社会に蔓延る反科学的傾向に常に警鐘を鳴らしていた大物理学者ワイスコップ教授が繰り返し強調されたことである。CERNを訪れていたある日、夏の学校で教授の「科学者の社会貢献」と題する講演を聴く機会を得た。この講演で、教授は次のように学術の精神的・文化的な面を強調された。
Weisskopf 『’Pollution’ にはMaterial Pollution と Mental Pollution がある。
前者は、化学汚染、放射能汚染などの物質的汚染である。
このタイプの汚染は技術的に解決する道があるはずで、科学技術よりも政治・経済の問題が大きいものである。誠実な政治、良心的な経済政策によって解決が得られる問題であろう。
後者の精神的汚染はもっと恐ろしいことである。若者は自己昂揚心を失い刹那的な悦びを求めて麻薬など非社会的な行為に走る。若者でなくても人生の目標を見失った人達は家庭を忘れ、職場における士気を失う。結果としていろいろな物質的汚染にも結びつく。
人類を精神的汚染から守るものは、「学術」と「芸術」である。人類が他の動物と異なる点は、自己の昂揚を求める気持ちである。これを失っては、個人も、家庭も、社会も、全てが乱れてしまう。若者が憧れ、人々に夢を与える知的な世界を築くことが「学術」の最も大切な社会貢献である。』
学術は社会の精神的・文化的風土を高める。学術研究の結果として生まれる経済的・社会的効果も大切であるが、学術のより本質的な意義を見失ってはならない。「文化としての学術」という言葉をもっと自然に理解される社会にしたい。
産業革命によって始まった「科学技術」は、内燃機関、自動車、航空機、電子技術・・・のように人々の生活に便宜を与える。しかし、その発展は、ルソーが指摘したように、常に影の部分が伴っている。一方、ワイスコップが強調した「学術と芸術」は、社会の精神的・文化的風土を高める営みで、文科系の学問も広く含まれている。
「科学技術」と「学術」の違いに注目したい。
I-5 文化の薫りと文明の悪臭
ルソーの批判を深く考えると,これは文化に対する批判ではなく,文明批判だと思うようになった。「文化と文明」というテーマは、百人百様の捉え方があり、意見が別れる。
われわれが尊敬する西島和彦先生(東大名誉教授:素粒子論)は
「文化の代表としての芸術は、その作品から作者をある程度推定しうるという意味で個性的である。学術の場合にも、その結論は普遍的であるとしても結論に到る道程から誰の研究結果であるか見当が付くぐらい個性的になれば、文化に属することになるであろう」とお話になった。
作家司馬遼太郎は、著作「アメリカ素描」の中で文化と文明を定義しようと、次のように書いている。
「文明は、たれもが参加できる普遍的なもの•合理的なもの•機能的なもの」、文化は、むしろ不合理なものであり、特定の集団においてのみ通用する特殊なもので他に及ぼしがたい。つまりは普遍的でない」。
そして、仙台のミーティングで、カントについてお話いただいた
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石川文康先生(東北学院大教授:哲学者, カント研究)は、
「文明は生活の便宜を造り、文化は豊かさを与える」と話された。
カントは、人類史の諸段階における発展を「自然状態」→「文明」→「文化」→「道徳」と捉える。原始の自然状態は個別の争いの混沌とした状態であった,やがて矢尻のような戦いの道具、石臼のような生活の道具が造られ文明が始まる、それから余裕ができるに合わせて文化が広がった。そして人類の最後の使命は道徳的完全性を求めることであると説いた。
18世紀半ばから始まった政治的•思想的改革と並んで始まった産業革命は新しい文明の誕生であった。まさにいろいろな面で「便宜」が生まれた。しかし、生活の便宜ばかりでなく、同時に産業公害•軍事産業•資本主義経済など「文明の悪臭」を醸し出した。その中で「文化の薫り」も生まれたが悪臭の方が強い印象を残す。ルソーの批判が的中している。カントの求める道徳的完全に辿り着く道も見えない。
I-6 I.カント と J.J.ルソー
仙台のミーティングでは、カント研究の第一人者である石川文康先生に「カントと学問•芸術」というお話をお願いした。ルソーの思想は感覚的•情緒的で、その人柄は矛盾に満ちているという批判を学ぶに従い、同じ時代に生きた堅実で理性的なカントはどう考えたか興味があった。
カントは、ルソーの論文を読んで強い感銘を受け、人間観に大きく影響を受けたと言われている。
石川先生は、初めに自然科学者としてのカントについて紹介された。カントは、地震論、天体論(太陽系星雲起源説)、ニュートンの自然学(エネルギー保存則;引力と斥力論)、自然地理学、人種論、などの研究を通じて、30歳代後半で既に自然科学者として大成した。こうして蓄えた極めて幅広い識見を基礎に、人間それ自身の研究、人間の究極の目的を追究する学問に進む。ルソーの人間観に影響を受け、道徳論を展開する。
カントは、哲学を人間それ自身の探求に向け(コペルニクス的展開と呼ばれている)、純粋理性、実践理性、判断力の3つに対する批判をまとめ、人類最後の使命として道徳的完全性を求める。
石川先生のお話ではカントによる「人類最後の使命」に関する学者の使命について深く論じて頂く時間が充分にとれず時間に追われて終わった感じで、たいへん申し訳なかったが、先生の著書「良心論」についてお話を伺い討論する機会を改めて企画したいと考えている。
タウンミーティング@仙台のパネル討論会は「アルスへの回帰」と題してアルスの会の原点を探る機会となった。
最初に本会特別会員の伊達宗行先生にお話をいただいた。アルスの会の創設にあたって引用させて頂いた先生のエッセイが,本会の名前のもととなった。それを、そのままにして今日まで来たことが気になっていたので標記のテーマで話す。という前おきで「アルス」の歴史的位置づけをお話し下さった。
ARS(人為)はギリシャ時代からある語で、NATURE(自然)に対する語である。東洋では、
老子に「玄牝(ゲンピン)」(母なる自然)に対する人為(ARS)がある。
Ars longa, vita brevis という句の意味は、
「芸術は長く、命は短い」とされているが、
世阿弥の風姿花伝にある「命には限りあり、
能には果(はて)あるべからず」という句と
同じ意味である。
I-8 自由技芸(Arts liberaux)
と機械技芸(Arts mecaniques)
中世のARSは、Arts liberaux(自由技芸)と、Arts mecaniques
(機会技芸)に分類された(Boethiusの分類)。
Arts liberaux(自由技芸)には中世の大学で教えた7科目があり、文法、修辞,論理の3科目(Trivium)と算術、幾何、天文、音楽の4科目(Quadrivium)に分かれていた。当時の人々は、自由人と使用人等(奴隷)の階級に分けられていたが、3科目(Trivium)を受けられるは自由人に限られていた。それは自由人としての素養を身につけるための修業で、いわば近年の「修身科」や「教養学科」のようなものであったと思われる。4科目(Quadrivium)の方にはその差別はなく誰でも参加できたそうである。
つまり、技術的要素のあるものを低く考えられていたそうである。したがって、Arts mecaniques(機会技芸)はさらに下のものとされていた。畑仕事、鍛冶屋、料理、彫刻絵画、音楽演奏などの手仕事は低く見られた。
I-9 D.ディドロの精神
伊達先生のお話を学んだところで、京都のミーティングで中川先生がお話になったディドロの事件を思い出した。何故ディドロが内科医と外科医の平等を唱え監獄にいれられるまでこだわったかが良く理解できた。即ち、当時は外科医のように技術を活かす職が軽視されていたので、ディドロがそれを改めようとしたのであった。
ディドロはダランベールと百科全書の編集にあたっていた。そこで、Arts liberaux と Arts mecaniques との上下関係の撤廃を主張したそうである。手仕事と美術、「美」と「有用性」は同等であるという主張であった。
18世紀半ばにおけるディドロのこの主張は、21世紀の現代にもなお新鮮で重要な主張である。
I-10 科学技術の転換点
仙台のミーティングには、野家啓一(東北大教授•副学長)、野家伸也(東北工業大教授)のご兄弟の哲学者に参加いただくことができた。お二人とも科学哲学がご専攻である。
兄の野家啓一先生には科学技術の転換点というタイトルで歴史をふり返るお話をいただいた。ギリシャ時代に始まり、宗教に支配された中世を通り抜けた科学に変革が起きたのは16世紀半ばから17世紀にかけてコペルニクスからニュートンの時代であった。ガリレオらにより実験的方法が成立した。
そして、第一の転換点を迎えたのは18世紀後半であった。産業革命が始まる中で、ディドロら百科全書家による自由学芸(Arts liberaux) から機会技術(Arts mecaniques)への学問観の転換が起った。フランスの Ecole Polytechnique、ドイツのTechnical Hochshule、アメリカの MIT などの技術専門校が生まれた。産業革命による社会の変化は急速に進んだ。
第二の転換点は、20世紀後半に起こり、戦時における科学者の大量動員、経費の大量投資によって、科学の推進に拍車をかけた。戦後も各分野で国威をかけた国家的事業が科学の巨大化を進めた。科学は巨大化するとともに、先鋭化し、精神的な要素をおきざりにしている。
I-11 哲学研究者の社会的責任:「知の統合」
野家伸也先生は、「人の心、人の営み」から離れて進む自然科学の姿を現代科学の重大な問題として採り上げ、最も象徴的に現れる地球環境問題を例にとって、自然科学系と人文科学系の「知の統合」の必要性を論じ,哲学の社会貢献の重要性を訴えられた。
その昔、公害問題に対する取り組みにおいて、理科系は自然の観測から対策までを全て対処できると言わんばかりの勢いで、他方、文科系は公害•汚染という問題は理科系の問題のように見ていた時があった。「理科系の傲慢、文科系の怠慢」という時代であった。近年になって、いわゆる理系と文系の協調が唱えられるようになってきた。例えばグリーン•ニューディールという運動が現実の政治課題となっている。大変な進歩であるが、経済だけを重視するようになると問題があろう。地球環境問題の対応は、新しい産業を生み大きな経済効果が期待されるという議論には首をかしげるところである。自然科学系と人文科学系の「知の統合」にあたっては、やはり歴史に基ずく哲学的理念がなくてはならない。財界•産業界のイニシャティブで動く政界•官界に任せる前に、学会の厳しいチェックが必要であろう。「知の統合」を目指す努力は哲学研究者の社会的責任である。
I-12 学術文化のスポンサー
ここまで、学術文化の歴史を中世から現代まで通して考える機会を得て多くのことを学んできたが、ふと、その変遷•変容の背景としてそのスポンサーの存在が大きいと感じた。
古代•中世は、教会が学問を支えていた。だから科学が進歩しなかった。中世になると教会に加えて国王•王侯•貴族ばどが学問芸術のスポンサーになった。そして、学校•大学が出現し学問芸術を支え、現代に至っている。中世における大学の使命は神学•哲学•法学•医学であった。自然科学は哲学の中にあった。
18世紀後半からは、市民革命と産業革命が起こり社会は大転換を遂げた。産業革命の推進は富裕な産業界を生み、資源を手に入れた資産家が現れた。また資本主義経済を育て、大財閥が生まれ財界ができた。
他方、産業革命により生まれた科学の戦争貢献は大きく、次々と起る国家間の大戦のために急速に発展した。そのときのスポンサーは、もちろん国家である。20世紀における大型科学は完全に国策の投資によっていた。その殆どは、戦争遂行のための投資(兵器開発)であったが、20世紀後半には国威発揚のための投資(宇宙開発•大型加速器など)が行われた。国の投資は、必ずしも巨大プロジェクトでなくとも総額は大きなものとなる。
プロジェクトの規模の大小を問わず、いずれにしても21世紀における学術文化のスポンサーは国である。国がスポンサーであるということは、国民がスポンサーである。財源は国民の税金だからである。あたかも官僚がスポンサーであるように思っているのは誤りで、国民の税金であるから効率的に研究し、早く成果を上げるようにというシステムを官僚が作って、それに研究者が振り回されている姿を見るのは悲しい。スポンサーである国の意思決定のメカニズムがおかしいからである。なにごとにおいても、官僚システムに
任せるとおかしいことになる。
例えば、国が「道楽」にお金を出すことは考えられない。いつも予算に余裕がなくなると文化的な活動が削減の対象になる。余裕がなくなれば、学術文化は育たない。もっと「国の道楽」があってよい。「道を楽しむこと:道楽」に投資する気持ちがあっても官僚システムによる意思決定では排除される。行政に関わる意思決定に民意を取り入れるシステムが必要である。その良い前例について考えよう。
I-13 学術行政の意思決定システム
学術研究の意思決定は、学者自身によって行われなければならない。戦後の日本を再建し、今日の繁栄に導いた日本学術会議の指導原理と体制は、この精神によって支えられてきた。20世紀後半の学術を成功に導いたのは、日本学術会議の力であった。小林•益川のノーベル賞受賞は、その代表的で象徴的な成果であった。
日本学術会議は学者の中から選ばれた会員による組織で、一方で学術研究の社会的責任を反省しつつ、他方では将来計画に関し研究者自身による厳しい事前評価を重ねて方針を国に提言•提案を行ってきた。広島•長崎の悲劇を背景に、戦後の廃墟から立上がって日本の将来を考えたリーダーたちの考えには、学術研究の発展ばかりでなくもっと基本的な哲学的理念があった。
坂田先生は,特に創設期の学術会議においてもその基本理念を固める上で大きな貢献を残された。
仁科•菊池•朝永•湯川•伏見先生と共に忘れてならないのは坂田昌一先生である。湯川•朝永両先生のノーベル賞受賞に続いて、坂田先生も受賞されるべきだと思っていたのに生前に実現しなかった。しかし、半世紀後にお弟子さんの益川•小林先生がノーベル賞を受賞されたことは、この上ないよろこびである。
南部•益川•小林先生のノーベル賞受賞は、その偉大な業績に加えて、20世紀におけるわが国の学術研究体制の成功として世界に誇るべきものである。
I-14 20世紀の成功例:湯川•朝永から小林•益川
「小林・益川ノーベル賞受賞」 – 20世紀学術研究体制の勝利 昨年は小林・益川両氏のノーベル賞受賞という嬉しいニュースに日本中が湧きました。何をおいてもまず、小林さん、益川さんに心からお祝いを申しあげます。つぎに、「小林・益川をストックホルムに送ろう」という合言葉のもと、トリスタン実験・ベル実験に全力を尽くした高エネルギー物理学研究者の皆さんにお慶びを申し上げます。この歓びは20世紀後半におけるわが国の学術研究体制の勝利であると言えましょう。湯川博士のノーベル賞受賞が発表された1949年に日本学術会議が発足しました。湯川博士の業績を記念して4年後に創設された京大基礎物理学研究所はわが国の全国共同利用研究体制の起点となり、学術会議では原子核研究連絡委員会とその下部組織が研究者の意見を集約して強固な態勢を築き上げて来ました。実験分野では全国共同利用研究機関として東大に原子核研究所が附置され、さらに1971年に大学共同利用機関として 高エネルギー物理学研究所(KEK)が設置されて世界のトップに並ぶ大型研究の基盤が整いました。この間、仁科・菊池・朝永・湯川・坂田・伏見らの諸先達が築かれた研究態勢が20世紀後半に華を咲かせました。小林・益川両氏のノーベル賞受賞はそれを象徴する慶事でありました。小林・益川の両氏は、米国BNLの実験でフィッチ・クローニンが発見したCP保存則の破れを説明するには、当時知られていた3種のクォーク(u,d,s)だけでは不十分でもっと多くのクォークが存在すべきであるということを予言しました。小林・益川の理論が発表されたとき、これに注目してその重要性を研究者仲間に説いたのは菅原さん(KEK物理研究部主幹)でした。成熟した共同実験研究体制のもとに、全国から高エネルギー研究者がKEKに集りトップクォーク(t)の発見を目指してトリスタン実験が始まりました。cクォーク、bクォークは米国で発見されていました。不幸なことにトップクォークの質量は予想を超えて大きくその発見には至らずに終わりましたが、日本の科学技術の発展と国際的地位の向上をもたらす結果となりました。 高エネルギー加速器研究機構(KEK)の長となった菅原さんは、このトリスタン実験が育んだ研究の基盤を活かすため、後継プログラムとしてベル実験を始めました。再び全国から高エネルギー研究者が集まって着実に実験を進め、小林・益川理論の実験的実証に成功しました。そして「小林・益川をストックホルムに送る」という念願を果しました。小林・益川ノーベル賞受賞の社会的影響は絶大であります。(1)基礎科学の重要性を強く訴えたこと、(2)子供や若者に夢を与えたこと、(3)日本の実力を世界に示したこと、などなどです。しかし、これは20世紀における日本の学術研究態勢から生まれた果実であるということを忘れてはなりません。学術会議とその下部組織が支えた20世紀の学術研究の環境は、21世紀に移る時期に合わせるかのように大きく変質したからです。20世紀の学術研究態勢は過去のものとなりつつあります。学術の発展は、更に大規模のプロジェクトを世界的規模の協力のもとに進めることが必要になっています。21世紀の学術行政の中で,特に研究者の意思が活かされる体制が望まれます。もう一度、20世紀の学術研究態勢を総括し、新しい世紀への指針を考え直すことが大切であろうと考えます。 (中井浩二) |
ここまでは、学術文化の歴史をたどってきたが、次に視点を現在に移して、20世紀後半の戦後における学術研究の歴史を振り返り、新しい世紀への指針を考え直すことにしたい。日本学術会議の総括と、今後の学術文化推進の方策について論じ逢う討論会を第3回アルスタウンミーティングとして企画したいと考える。
I-15 京都•仙台ミーティングの成果
京都•仙台のミーティングは、関係者の努力によって大成功であった。
京大では物理教室の永江さんと川合さんの両教授に協力をいただいた。参加者は23名で、その殆ど全員は物理理論•実験の研究者であったが、中川久定先生のお話に強い興味を抱いて傾聴していた。さすがに日頃聴くことがない内容なので、議論が沸くほどにはならなかったが、先生のお話は、その後、仙台で行ったミーティングの話題に繋がってその基礎固めとなった。
後半のパネル討論には、益川敏英先生に忙しい時間を割いて参加していただき、研究体制の在り方について、文系理系両側の視点から討論することを期待したが、充分な打ち合わせも無く準備不足のまま始めたため、話が充分に噛合わなかった。この反省は、秋に東京で開く第3回のミーティングに活かせるつもりである。
仙台のミーティングは、本会幹事の織原さん(東北工大)と会員の田村•酒見さん(東北大)に世話役をお願いし、ご三方による充分な準備の下に開催された。特に、田村さんの発案とご努力のおかげで東北大のGCOEプロフラム「物質階層を紡ぐ科学フロンティアの新展開」と共催することができ、その科学哲学パートのリーダーである野家啓一先生(東北大副学長)をはじめ、多くの哲学研究者の参加を得られることになった。さらに、東北工業大学から野家伸也教授、東北学院大学の石川文康教授にも参加いただいたので、物理学者と哲学者が一堂に会する討論会ができた。この仙台でもカント研究の第一人者石川先生のお話で始まり、科学哲学の野家伸也先生に続く哲学者のお話を物理学研究者が聴講することから始まった。
続くパネル討論会では、本会特別会員で仙台在住の伊達宗行先生(阪大名誉教授)が
「アルス」の歴史的背景をお話下さった。あまり深く知らないで「アルスの会」と名乗ってきたのは、伊達先生のエッセイに始まっていて、先生を名付け親のように考えていたが
、大変良く理解できた。
京都の会を足場にして、仙台の会では学術的文化の歴史的発展とその背景思想史的背景について深く学ぶことができた。
ルソーの貴族社会に対する鋭い批判、「百科全書家」ディドロが強く訴えた上下関係の除去、などにより導かれた市民革命(フランス革命など)を通じて社会を変えた18世紀後半の時代に、他方では産業革命が学術の世界を変えた。この変革の光と影の下に現代の学術の環境ができてきた。そこには、科学技術の進歩による文明の輝きと共に、戦争や産業公害による数々の犠牲も目立つ。殊に身近な問題として、今世紀に入ってからのわが国の科学技術行政は経済効果のみに注目する結果、学術の進展を著しく妨げている。
仙台のミーティングは、学術研究の進め方に関して物理学研究者と哲学研究者が共有する危惧を確認し合う結果となった。その中で、特に印象的なことは、文系•理系に分化した現状に対し「知の統合」が話題となったことであった。科学技術という理系中心のプロジェクトの事前•事後評価に業界を含む経済や社会学の関係者が関わりプロジェクトの効率や成果を近視眼的な視点で論じることが多いが、プロジェクトや政策についてはその原点に戻って理念を論じるために、哲学研究者や歴史学者による広い視点が望まれる。もっと一般に考えるならば、政策の決定や評価にもっと哲学者が関わることが必要で、それが哲学研究者の重要な社会貢献の一つであると思った。東北大のGCOEからそのような芽が育つことを期待する。
I-附 京都•仙台ミーティング実施の記録
アルスタウンミーティング@京都 (2009.7.22)
●参加者23名、その殆どを占めるが物理研究者がフランス文学者中川久定先生の講演を強い興味を持って拝聴した。
アルスタウンミーティング@仙台 (2009.8.22)
●参加者約40名、東北大学関係者のご努力によって、東北大学のグローバルCOEプログラム「物質階層を紡ぐ科学フロンティアの新展開」と共催することができた。 同大学副学長野家啓一先生 (科学哲学専攻) をはじめとする哲学者多数と物理学者が一堂に集り講演と討論の会を持つことができた。
伊達宗行先生 (本会特別会員) の講演「アルスの形成と変容」を軸に学術に関する歴史観を論じる機会が得られた.
このミーティングについては、「宮城の新聞」の記事「文理の垣根超え、物理学者と哲学者が議論 東北大で討論会」(大草芳江)で広く紹介された。