( I )原子力科学半世紀の総括

1. 原子核研究の復興:研究者主導の体制の確立
ヒロシマ・ナガサキの悲劇を最後に太平洋戦争が終結した後、占領軍によって日本は原子核・原子力の研究を禁止された原爆製造 [5, 6-3]。を怖れたからであった。東京・大阪のサイクロトロンは海に投棄され戦前世界のトップレベルに肩を並べていた日本の原子核研究は完全に破壊された。原子核研究者はこの廃墟から立ち上がり戦前の研究環境を取り戻すことに必死であった[5]。仁科.菊池.朝永先生が先頭に立って占領軍に訴願された。その時、「原子力と原子核は違うと説明した」と朝永先生が書き残して居られる[6-3]。

やがて、軍人の蛮行に怒った米国の原子核分野の友人達も立ち上がって手伝ってくれた。戦前の日本の研究を良く知っていて互いに尊敬しあう間柄にあった米国の物理学者達であった。中でもサイクロトロンの発明者E.ローレンスは来日して占領軍(GHQ)と交渉してくれた。そのおかげでサイクロトンの建造が許され東京・大阪・京都に再建された。その後原子核研究者は自らの学問の復興に集中し、戦後の1949年に設立された日本学術会議の下に研究者主導の体制を築いて共同利用研究機関として東大原子核研究所(核研)を建設した。核研が設立され共同研究体制が確立した後は研究の大型化に対応して、文部省高エネルギー物理学研究所、阪大核物理学研究センターを建設し、日本の素粒子原子核研究は世界のトップレベルに並ぶまで回復した。研究者主導の体制は、研究成果を挙げ、若手研究者の意欲を刺激し、優れた人材を育てる意味でも成功であった[5][7]。

その後、原子核研究者は自らの学問の復興に集中し、戦後の1949年に設立された日本学術会議の下に研究者主導の体制を築いて共同利用研究機関として東大原子核研究所(核研)を建設した。核研が設立され、共同研究体制が確立した後は研究の大形化に対応して、文部省高エネルギー物理学研究所、阪大核物理学研究センターを建設し、日本の素粒子原子核研究は世界のトップレベルに並ぶまで回復した。研究者主導の体制は、研究成果を挙げ、若手研究者の意欲を刺激し、優れた人材を育てる意味でも成功であった。

2. 原子力平和利用研究推進に関わる論争
原子力研究の推進も、始めは学術会議において坂田・武谷・伏見先生らの努力により学界主導で議論が始まった[2-1]。しかし、ヒロシマ・ナガサキの記憶が生々しい当時では原子力に対する反感も強く、イデオロギー論争もあって、議論の進みは遅かった。今から思えば、学術会議における議論の論客は理論物理学者であった。そして原子力推進派の ’専門家’ は工学系の人たちで、原子核実験の経験を持たない人達であった。

それを見て若手(当時)論客の山口嘉夫先生に「原子核を知らないで原子力をやるという人がはびこって原子力を進めると危ない」という予感が浮かんだ[2-1]。この山口の予感には早川・藤本先生も共鳴するところとなり、当時広島大学理論研所長で被爆者の三村先生に伝わって学術会議における三村演説に結びつき、この演説で原子力問題推進のための茅・伏見提案が審議未了に陥ることになったことは良く知られている[2-1]。学術会議における原子力研究推進の機運はつまずくことになった。しかし、この時の山口の予感は今日の福島事故を言い当てていた。

3. 原子核と原子力の乖離
1954年の春、中曽根代議士(当時は改進党)が突如2億3500万円の原子力予算を提案した、その時、「学者が眠っているから、頬を札束でひっぱたいて目を覚ませてやるんだ」といういわゆる「中曽根発言」を残した[8]。(実は、稲葉代議士が言った言葉だそうであるが)この言葉が象徴的で学界を刺激したことは忘れられない。続いて5月に開かれた経団連総会で石川一郎会長も「一部の学者のイデオロギー論や抽象論に時間を空費し原子力平和研究を遅延させれば、わが国は技術に大きな遅れをきたすことになる」と発言して、それまでの学術会議における論争を批判し、原子力研究を国家事業として政材界主導で始めた[2-1]。これにより原子核研究者の協力姿勢が大きく変わった。原子核研究グループと原子力研究グループの乖離の原因になった。

1955年に原子力基本法が成立、1956年に原子力研究所法が成立し日本原子力研究所(原研)が創設された。その時、伏見先生は、実績のある原子核研究者がその前年に発足した原子核研究所に集まり、原子力研究所には冷淡であったことを大変心配して居られた。「中曽根発言」に対する反発もあった。それよりも原子核研究者の誰もが戦争で廃墟に追い込まれた原子核研究の復興に夢と意義を感じたからであった。それから60年余りを経て、研究者主導の原子核・素粒子の研究は世界のトップレベルに並んだ。その対極にあって政財界主導の国策事業として進められた原子力研究は福島原発の大事故で世間に恐怖をひろげた。

4. 国策としての原子力開発:政財界主導の事業
1952年にサンフランシスコ講和条約が成立し、占領軍による原子力研究禁止令は消えた。

1953年には、有名なアイゼンハワーの国連演説「Atom for Peace (平和のための原子力) 」[2-1. 6-3]があって、原子力平和利用は国際的関心事となり各国が競って力を入れるようになった。上記の石川発言はそのような背景から生まれたものと思われる。政財界のリーダーから見れば、日本はぐずぐずしていられない状況であった。この「焦り」が、その後の原子力政策の歪みの原因になった

伏見提案が審議未了に陥ることになったことは良く知られている。学術会議における原子力研究推進の機運はつまずくことになった。しかし、この時の山口先生の予感は今日の福島事故を言い当てていた。

「原子核を知らないで原子力をやるという人‥‥」と批判された人達の中にも本気で原子力の勉強をはじめ、米国などに留学して経験を身につける人達もいた。やがて原子力研究所が始まると、米国から輸入した小型の原子炉JRR-1やJRR-2の建設・組立・運転を通じて経験を重ねた人材も育った。しかし問題はその若い人材を組織立てて活かすべきリーダーの腰が据わっていなかった。大学で若い人達を指導した経験者は少なく、常に研究予算の獲得に努め、研究の方針は上層部から伝わってくるものであった。研究者の意思を束ねる努力が見られなかった。そのような研究環境で育つ優秀な人材は限られていた。

原子力産業推進という国策に対する産業界の対応にも、燃えるような意欲は感じられなかった[2-2]。初期の努力は原研が輸入する海外の技術を学ぶことから始まった。原研はいわば海外技術紹介の場であった。やがて、国産1号炉 JRR-3 の建設が始まった。日本の産業界を挙げて独自で原子炉を建設する力を築こうという事業として、日立・東芝・三菱・富士・住友の五社が参加した。原研側も実力のある中堅の研究者を集めて、各社間の調整に対応した。そして国産1号炉JRR-3 は完成した。共同建設の実が挙って成功すれば日本の原子力の将来を拓く大事業のはずであった。しかし、共同建設に参加した各社がそれから後に共同で事業を興した例はない。JRR-3共同建設で学んだことは各社の担当する部分の間の接続の難しさであったように聞く。当時、原研側研究者の先輩から、各社間の連携を採ることの難しさを毎日のように聞かされていたことを思い出す。

結局、次の世代の動力炉建設では、各社は先ず米国の原子炉メーカーの傘下に入ってその下請けの形で取り組み、米国支配のような形で で始まって50基を超える数の動力炉が建設された。

5. 動力炉導入政策における「自主.民主.公開」の努力の行くえ
1955年の原子力基本法成立に当たり、学術会議は「自主.民主.公開」の原子力3原則の堅持を強く求め[2-1]、政財界主導の原子力開発を進める指針として尊重されてきた。特に公開の原則については厳しくチェックされてきた。しかし、原子力発電のための動力炉導入にあたっては、この原則が揺らいだ。すなわち、急いで電力供給の実を挙げるために米国依存の技術導入によって次々と動力炉を輸入した。上述のように、日本独自で建設する態勢が整うまでには、もっと努力を積む必要があったのに、全く米国からの輸入に依存せざるを得なかった。当時の東電の副所長の回想談義によれば「経済的にも大変有利な方法」であると判断したそうである。いわゆる「ターンキー契約」なる形態では日本側はキーだけ回せばよいという旨い話であった。しかし、それは日本の技術力の向上を阻害するものであり、自主開発を謳う3原則に反することであった。

しかし、日本の科学技術政策は欧米の技術に学ぶことから始まるという伝統は、明治維新の開国以来のものであった。火力発電も水力発電も、その道を歩んできた。原子力発電に始まったことではないと先輩が話してくれた。ゼロから始まった日本の原子力発電こそ、海外の技術の導入から始めて自国の技術の向上を図らねばならなかった。

結局、日立と東芝は米国のGE(ゼネラルエレクトリック)社と提携してBWR (沸騰水)型、三菱は米国のWH (ウエスティングハウス)社と提携してPWR (加圧水)型の原子炉を建造した。日立/東芝は東日本、三菱は西日本にそれぞれ勢力を張っていたことから結果として、東はBWR、西はPWRという分布が出来、両者の比はほぼ1対1になった。世界の状況を見るとPWR/BWRの比は3対1である。この比率は無意味ではない。

福島は東だから日立/東芝に造ってもらう、だからBWR型である,というようなことで決まるようでは困る。わが国の動力炉導入にあたりその選択についてどれだけの技術的検討が独自の視点で行われたか疑問を感じる。可能な限り徹底的にPWRとBWRの性能・安全性を比較検討して機種を決めるべきであった。

そもそもPWRは原子力潜水艦に積載され多くの経験の蓄積があり、一次冷却水が格納容器の中に納まっている。原発政策反対の久米三四郎先輩は早くからBWR/MARK-1型原子炉の配管系の弱点を指摘して居られたそうである。PWR対BWRの安全性の科学技術的比較検討を深めず、製造社の判断に任せた政府や電力会社の決め方に大きな疑問が残った。

6. 米国の技術力の低下とそれを補う日本の技術力
原発事故を起こした福島第1原子力発電所の建設時期が1970年代初期であると気づいて、愕然とした。この時期、米国の技術は著しく低下した、或いは低下し始めた[9]。原因はベトナム戦争による技術者のモラール(士気)の低下であった。社会一般における精神的汚染の広がりが科学技術に関わる人達のモラールに及んだ。

JRR-1を輸入した1950年代後半、アメリカの技術は輝いて見えた。1965年に米国から輸入した加速器も完璧であった。細かいところまで良く配慮が届いた機器であった。それが、その頃次第に激化したベトナム戦争によってアメリカが変わった。技術者のモラールばかりでなく、商道徳も地に落ちた。昔は「安かろう、悪かろう」と悪口を言われた日本製品と違わないように、Made in Taiwan、Hong Kong‥などアジア・東南アジアの下請け製品がMade in USAに代わってアメリカの巷に溢れた頃である。

事故を起こした炉は、次々と欠陥が報告され、日本の技術者の責任であるように論じられているが、その本質的な部分が見えてくるに従い設計段階からあった元々の欠陥が明らかになってきた。Made in USAが信頼できなくなっていた。

アメリカの技術力に対する信頼が失われる中で、それから後50基の動力炉を導入しても困ることなくわが国の原子力発電が軌道に載ったのは、原子力産業を支えるわが国の技術力の向上のおかげであった[10]。先に述べたようにゼロから始まった日本の原子力技術は、先ず原研などの研究炉で人材を育てたが,動力炉に関しては電力会社と日立・東芝や三菱の技術者の手に移った。彼らはアメリカから輸入された動力炉の初期トラブルに対応し、原因の究明、不良機器の交換、欠陥構造の改造、等々に対し、自らの国産技術・国産機材・国産機器の投入するなどによって改善に努め、その過程の中で実力を身につけ、遂には米国を超える力を蓄えた。例えば、原子力関係特許の数は米国を超えているそうである。
アメリカ依存で始まった日本の原子力技術は、完全に脱却し今日では日本の技術になっている。問題とするべきは、原子力開発に深い反省やヴィジョンのないままここまで猪突猛進してきたことで,緊急の事態に対応する準備などが疎かになっていたことであろう。

7. 菊池正士先生の警告:「シビアアクシデント」の恐ろしさ
日本の原子力研究が軌道に乗り始め、動力炉の導入が始まって敦賀や福島で大型の動力炉が建設され始めた時代を背景にして、1973年に菊池正士先生が「原子力発電の危険性の本質は運転に伴い原子炉の中に生じる莫大な量の放射性同位元素の蓄積である」と警告の論文を書かれた[6-1]。原発事故の本質をつく警告であった。福島原発事故をシビアアクシデント(過酷事故)と呼びその恐ろしさを論じている人達は40年も昔のこの警告を知っていたであろうか? 原子核物理の素養に欠ける原子力業界の中にそのような考えが浮かぶはずはない。

菊池先生は早くから日本の原子力開発の推進を強く望んで居られた[6-2]。先生は、戦後の原子核研究の建て直しのため原子核研究所の所長として原子核分野の将来に向けた復興路線を固められた後、原子力研究所に請われて理事長を務められた。そのときにお考えになっていたことであろうか、理事長職を退かれた後に日本原子力学会に発表するつもりで、病床でまとめられた論文である。学会講演は実現できず若手研究者の代読で終わったと聞いているが、論文は、原子力学会誌に発表されている。先生の最後の論文となった。

菊池先生が「仮想的大事故」として論じられたことが、実際、福島で起こった。福島の前にも米国のスリーマイル島で、そして、ロシアのチェルノブイリで大事故が起こっている。 それでも、今日に至るまで菊池先生が遺された問題に応えることができていない。

先生の遺題は、「最大事故の場合の災害評価を行い、わが国に置かれる原子力発電所の容量に上限を付する必要があるかないか?あるとすればどのくらいにするか?」ということであった。菊池先生ご自身も大変難しい問題であると考えて居られたようである。

菊池先生は、かねがね動力炉建設のパブリックアクセプタンスの必要性を訴えておられたがそれに間に合わないでこの世を去られた。今なお、先生の御遺志は宙に浮いたままである。

同じ頃、1974年に米国でもMITのラスムッセン教授達が安全性の研究をして事故発生を確率論的に予想し原発1基当たり10億年に1回とした[11]。そのような根拠を基にして奇妙な「安全神話」が唱えられ、強引に54基の動力炉が建設された。しかしラスムッセン報告から5年後の1979年にスリーマイル島の大事故が起こり10年後にはチェルノブイリの事故が起こってラスムッセン報告の信用は失墜した。もう一度原点に還って、原子力発電のリスク評価を考えなければならない。菊池先生の問題提起から40年を経た今日では、3つの大原発事故に関するデータを踏まえた解析が可能になっている。

リスク評価の答えを待つまでもなく、福島原発事故の教訓を活かして安全性を求める道の一つは、動力炉の小型化を図ることである。福島原発事故とその後の放射能汚染の大変な状況を見ていると、もし,この原子炉が小型であればこんなに大事件にならずに済んだであろう、と思わずにおられない。しかし、動力炉の小型化には原子力発電の経済性から大きな疑問が生じる。そもそも動力炉が大型になったのは、原子力発電の推進に火力は発電や水力発電と競って発電コストを下げることが必要であったからである。必然的に動力炉が大型化し事故を大きくしてしまった。

8. 使用済み核燃料ほか核廃棄物の処分:「シビアマター」
動力炉の中に蓄積する莫大な量の放射性物質の一部が放出される事故が「シビアアクシデント」であるとすると、放出されない部分、特に使用済みの核燃料の蓄積をどうするのかという問題も「シビアマター」である。どうするのかという質問に対し、未だ決定的な答は出来ていない。

高速中性子を使って燃やしてしまうという考えもあったが、高速中性子炉「もんじゅ」の失敗で停止することとなった今、加速器の大強度ビームを用いた核変換法が脚光を浴びている。使用済み燃料には極めて長寿命の核物質が含まれているが、これに高速中性子を照射して1,000年未満の寿命をもつ同位元素に核変換を起こし、これを固化して地層に埋める案の検討が進められている。これには大強度加速器の技術とバックエンドケミストリーと呼ばれる放射化学の技術が重要である。前者は高エネルギー物理学などの基礎研究の為に開発が進み、今では世界一の技術があるが、放射化学の技術は嘗ての実力を失っている。その最大の理由は原研のRI製造グループを閣議決定によって解体したからである[12]。ここでも人材の大切さを忘れた日本の原子力政策の落ち度がある。放射化学の人材の育成強化は重要な課題である。この方法の窮極の困難は地層処理の場所を見つけることである。

もう一つの消滅法は高速中性子炉による消滅である。それに必要な高速炉の開発も折角の研究者の努力が活かされずに終わっている。菊池先生が原研理事長を務めて居られた1970年頃、旧阪大菊池研の能澤正雄さんが原研に移られ、わが国の高速炉開発を手がけられた。大学と異なる原研の環境の中であったが、能澤さんは先ず10名弱の若手研究者を集めて初等的な勉強から始め、高速臨界施設FCAを建設し、実験を進めながら日本最初の高速中性子炉「常陽」の設計まで進められた。丁度原研は動力炉導入の準備を始めていたところであった。この時点で全く事業の科学的内容を無視するように高速炉も含む動力炉開発は原研から動燃に移された。能澤さん達の努力は「常陽」の設計までとなって建設は動燃が行った。折角まとめた若手の人材は、その中の数人が移っただけであった。その次の「もんじゅ」の設計には原研での努力は活かされなかった。そして「もんじゅ」の事故が起こり、結局高速炉建設の道は閉ざされた。

9.経済原理優先による安全対策の欠如
福島原発事故は地震・津波による想定外の事変の重なりで対策がとれなかったというものではない。アルスの会では、昨年夏(2011.7)に開いたタウンミーティング@大阪で馬場宏さんが「1992年にIAEAから東電に対しMARK-1の欠陥について改善の勧告が来た。そして、2007年のIAEA総会で津波対策が不充分だと指摘され、東電は対策をとることを約束した。それなのに東電は実行しなかった。水素爆発の可能性も1970年代から予言されていた。このように助言を受けていたことを東電は無視していた。」と指摘された[13]。全電源喪失に対応する緊急電源についても予め問題指摘があったことなどを能澤正雄さんが話された[14]。早くから指摘されていたこれらの問題に対する東電の無策・怠慢は許されないことである。

被害を避けられた、或いは軽減できたはずの措置がとられなかったことについては、当然国会事故調査委員会でも厳しくとりあげられ、東電による対策の先延ばしと、その東電の行動を承知しながら規制・監督の任務を果たさなかった保安院、そしてさらにその背景として、規制緩和等を当局に働きかけていた電事連(電気事業連合会)の対応を批判した[3-1]。

原子力に限らず、どこの現場においても共通のことであるが、安全のための投資は判断に迷い、結局経済的な理由によってないがしろにされがちである。そもそも、当初から原子力発電の普及を図るにあたって、発電コストが火力発電や水力発電のコストと比較して低くなければならぬという要請があるため数々の無理が生じた結果である。

10. 官僚支配で形骸化した民主主義の姿
200万人の戦死者を含み300万人に近い生命を失った太平洋戦争によって日本人が得たものは民主主義の社会であった。しかし戦時の苦しみを乗り越えて得た理想社会のように思えた平和な日本の民主主義は、やがて初心を忘れるように形骸化し、官僚的な考えに満ちた社会体制を築き、エゴイスティックな社会心理を育んでしまった。福島事故の原因を探ってみると、日本の社会と政治のひどい姿が浮かび上がってくる。

官僚の一人一人は優れた人達であるが、官僚システムは責任を被らないように護られていることにある。本来は意見の交換と集約を目的とする委員会制度は、官僚システムの中では責任の分散或いは責任逃れの手段に堕落してしまう。

原子力の研究・開発に関しての元締めとなる原子力委員会と原子力安全委員会は、福島事故に対して適切に行動しリーダーシップを発揮したとは思えない。先に起こった東海村のJCO事故では原子力安全委員であった住田健二さんの適確な判断に基づく行動で事故の拡大を防ぐことができた[2-2]。ところが首相の諮問機関である安全委員会の委員が無断で現場に入り指導したことに対する批判がでたという。住田さん自身はこれを否定されたが、原子力委員会も原子力安全委員会もいわゆる第8条委員会で実権を与えられていないということを学んだ。実権のある第3条委員会は公正取引委員会など数例しかないそうである[15]。原子力事故の重大性を考えるとそのくらいの力が原子力安全委員会に与えられるべきであろう。

福島事故の際、原子力の安全性に責任を持つはずの保安院の振る舞いには疑問が多く残された。次々と起こる異常事態対して東電の人達と一緒になって自信無さげにおろおろと対応する姿が印象に残った。予め現場を充分把握していないため、そして多分、監督されるべき東電の人達の方が良く現場を理解していたためであろうと感じられた。

そもそも、原子力についての技術者は旧科学技術庁系の原研などで鍛えられた経験豊かな人が多いのに何故経産省系の人がでてくるのかと不思議に思ったが、実は研究炉は科学技術庁、動力炉は通産省という仕事の分担が以前から出来ていたと聞いてその理由は理解できた。しかし、官庁の驚くべき体質を見る気がした。原子力の安全性を護る機関の間に官庁の壁があり、それぞれの省内で問題を扱う体質では人事の交流が阻害され、もともと人材の育成が困難な分野に断絶が生じている。事故直後、嘗て原研を中心に活躍されたリーダーの能澤正雄さんや住田健二さんには何の相談も来なかったそうである。東京でも嘗て原研の理事長を務められた松浦祥二郎さんほか多くの方が心配して居られた[16]。

いかなるシステムにおいても人事が大切である。特に危機対応には優れた人材を活用するための柔軟な人事が望まれる。官僚支配の人事は、自己保身のこだわりと偏りに支配され、〇〇ムラを作り、天下りを助長する。委員会等の人事では、いわゆる御用学者がはびこる。これは官庁に限ることではなく、民間の大企業では、もっとひどいものかもかも知れない。いつも透明性を求め、公開性を要求する報道界の人事も同様でなかろうか?

11. 安全は規制・監視・点検・管理で護れるか?
国会事故調の黒川委員会は、鋭い視点で事故の原因を調査し適確な判断を下しているが、そのまとめとなった7つの提言には「規制」「監視」「管理」という言葉がおどっている。規制・監視・管理は安全の確保に最も必要なことである。しかしそれは必要条件であって充分ではない。規制・監視・管理の為の委員会設置や体制作りをしてもその委員会の人事が心配である。保安院があってもうまく機能しなかった例を見たところである。最も注意すべきはそのような組織が天下りの口実になってしまうことである。

日本の動力炉の稼働率が60%しかなく、米国の90%に比べて著しく低い[17]。それは点検監視の為の運転停止が多い為であるとデータが示している。一般論として運転中の機器はむやみに止めるものではなく、止めることによって起こる故障や不都合が生じると感じている人は多い。

安全を護る道は優秀な人材を育て、優秀な人材を配置することである。黒川先生は良くご存じのはずである。黒川委員会の提言で、優れた人材の育成と活用に注目されなかったことは残念であった。

12. 人材の育成と活用
福島原発事故に関するいろいろな事件や事象を振り返れば振り返るほど、人材育成の必要性が強く感じられる。

今回の事故がきっかけとなって、原発の将来についての議論が始まり脱原発論まで叫ばれるような状況であるが、原発をやめるか続けるかに関わらず人材の増強は必要である。既にその昔各大学に設けられた原子力工学科は次々と廃止或いは変更されていて、その復興を企てても志望学生が集まらない状況である。ましてや、脱原子炉とか廃原子炉とかいうキャンペーンは負の効果を生んでいる。

若い優秀な人材を育てるには,学科を増やすこと、就職率をあげること、奨学金をあげるなどの努力も必要だが、何よりも彼らが夢を抱くプロジェクトをたてることである。原子力分野にそのようなテーマは山のようにある。これまでは原子力と言えば発電のことばかり考えるから人気がなくなってしまった。原子力の魅力は大きく広い。原子力船の開発、原子力潜水艇、原子力海底センター、核医学、同位元素利用技術、それに加速器科学も含めた基礎科学並びに広い応用など若い人に語るべきことは多い。問題はそのような夢を語り、実践する教師がいなくなったことである。旧原子力工学科の誤りであった。原子力理学科が必要なのかもしれない。

13. ゼロリスク希求の社会心理
太平洋戦争で軍の全体主義的支配に悩まされ苦しんだ日本国民は、戦後自由で個人を大切にする社会を謳歌している。そして、戦争中の指導者に騙され操られた記憶から政府や指導者の言葉を信じなくなってしまった。しかし、その姿勢が真に批判力に基づいたものになっているときは良いが、社会は必ずしもそうでない。

戦時中「大本営発表」と言われた戦況の報告を疑った人は極めて少なかった。福島の事故がこの騒ぎになるまで「原子炉の安全神話」を疑う人はどれだけあっただろうか? 勿論、どちらの場合も疑う人はあった。しかし、それを声に挙げる人は少なかった。社会的批判力の欠如が起こす不幸である。原子力に限らない。教育の現場で起こる問題は大きい。専門家の言うことは絶対だと思う心理、「お上」の言うことに逆らえないと思う気持ちが社会にいろいろな歪みをもたらす。

批判力の涵養は充分な学習によって支えられる。無知のまま拒否や反対の行動に入ることは社会を混乱させる。京都の大文字焼きに陸前浜の松を燃やす提案を拒否したというニュースや、福島の子供と遊ぶ放射線がうつると言っていじめたというニュースを聞いて悲しかった。無知のおそろしさである。

事故の後で最も困っている問題の多くはゼロリスクを求める市民の意識である。それはまた各種の風評被害を拡大している。これは日本に限ったことではなく世界中にあることだが、高度に成長した文化国家と自負する日本では、もっと科学的な理解に基づく批判力を育てたいものである

14. 信頼感を育てる教育の原点、「絆」
福島原発事故をはじめ東日本大地震の経験を通じて多くのことを学んだが、その中で最も強く感じられたことは、教育の大切さである。それには言いきれないほど、いろいろな要素があり、いろいろな階層で問題がある。

大事故から立ち直る復興の努力が進む中で「絆」という言葉が浮かび上がってきた。東北人の強さ、日本全国から寄せられたボランティアの力、など海外から見る目は優しく好意的であった。これは永い歴史の中で育った日本人の国民性であろう。「絆」は、相互の信頼感に基づくものである。

戦中・戦後の社会は苦難に満ちた日常であったが人々の「絆」は強かった。そのこころの豊かさは、経済の成長と共に失われて行った。「絆」の構造は変質して、いびつな個人主義がはびこり信頼感が薄れるようになった。そんな社会の中で教育の荒廃が進んだ。

原子力開発を始めようとする学術会議の議論を奪って国策事業として始め原子力基本法を成立させた1955年は、自由党と民主党が保守合同を果たし、右派と左派に分かれていた社会党が一体化して、政治のいわゆる「55年態勢」が始まった年で、強引な政治の始まりであった。教育についても、文部省と日教組の激しい争いが始まって今日の教育の荒廃を招いた。争いの中から生まれたものは、隙のない官僚的で劃一的な教育の形であった。

福島原発事故そのものに見たものは原子力事業における人材の育成と有効な活用に失敗した姿であったが、事故後の社会の反応を見ると一般社会に対する正しい科学教育の必要性を強く感じた。

教育には知(識)の教育と智(慧)の教育があると主張する。先ず例えば、知の教育として欠けているのは放射線と放射能の教育である。体外照射と体内照射の区別も難しい。加えて、単位についても何も解らない。せめて、中学.高校では教えるべきだと言うが、限りがある。

必要なときに学ぶ能力を身につけさせるのが智の教育である。親に訊く、訊かれた親は解説書などで調べてやる。勿論自分で解説書を見つける、講演会を訊くなどの能力を身につけてやることが教育者の仕事である。しかし放射線の影響、地震の予想などについては学術的に確定的に言えないこともある。そのとき’専門家’がそれぞれ自分の考えだけを述べると混乱を起こして科学者が信頼を失う。難しい問題である。結局は批判的に物事を考える力の涵養が必要である。

15. 世論形成におけるマスメディアの責任
福島事故とその後に次々と伝えられる社会の動きを見ていると、世論、或いは社会心理の形成に果たすマスメディアの役割の大きさに脅威を感じる。

事故に関する情報を伝えるにあたって,その報道が社会に与える影響・効果について慎重で充分な検討が必要である。一刻も早く報せる、責任ある当局の情報公開を促す必要がある、

しかし、影響の大きさを考えて拙速は避けるべきである。情報を公開せよと訴える人達がその情報を正しく理解する能力があるのかと疑われる事態がしばしば見られた。あるテレビで常連の評論家が「1200マイクロシーベルトを1.2ミリシーベルトと言って小さくみせている」と話しているところを見て驚いた。このような幼稚な人が大きな顔をして出演するマスコミの危なさがいろいろな場面で見られた。専門家と呼ばれる人の意見を紹介するがその中には

科学者の間でも意見が別れていることを話すと一般人には混乱を起こす。

商業媒体である新聞・テレビ・ラジオなどでは、購買数や聴視率を上げることが報道内容の評価基準となり易い。また、現場で活躍する記者達は、編集段階で採用されるように努め

他社に負けないようにと記事を探す。そうすると、自然の成り行きとして事件性の高い記事が集められることになる。

例えば、福島原発の記事で社会に事故の怖さをこまごまと報道するが、同じ東日本地震の被災地にある女川原子力発電所が無事であったという報道は極めて少ない。日本経済新聞の記事によれば、2012年7月にIAEA, NRC(米), IRSN(仏)の人達を含む19人の外国人専門家が女川原発を視察した。一行の代表は「失敗から学ぶことも重要だが、うまくいった例からも同じくらい貴重な教訓を引き出せる」と 言って帰ったそうである [18:日経電子版 2012/9/3]。この記事に気づいた人はどのくらいいたであろうか?

2007年7月に起こった新潟県中越沖地震で震度6強を経験した柏崎刈羽原子力発電所の時も大騒ぎになったが、運転中の2, 3, 4, 7号機は自動停止し原子炉が安全であった。3号機屋外の変圧器から出火したことを騒いだマスコミもIAEAの会見で「有為な損害無し」と言われておさまった。

福島原発事故の失敗は、科学技術の失敗ではなく政財界主導の原子力政策の失敗である。基本計画から事故時における危機管理に及ぶ全ての段階におけるガバナンスの欠陥であり、東京電力-電事連-経産省が責任を負うべきことである。そのことが正しく理解されないうちに世論を煽った報道の責任も大きい。原発と言えば、全てが福島の欠陥炉と同じと思うような世論を育て、健全な議論を妨げてしまった。

福島原発事故の失敗は、科学技術の失敗ではなく政財界主導の原子力政策の失敗である。基本計画から事故時における危機管理に及ぶ全ての段階におけるガバナンスの欠陥であり、東京電力-電事連-経産省が責任を負うべきことである。そのことが正しく理解されないうちに世論を煽った報道の責任も大きい。原発と言えば、全てが福島の欠陥炉と同じと思うような世論を育て、健全な議論を妨げてしまった。

16. 政財界主導の国策の危うさ
原子力事業が国策として政財界の主導で進められた結果、いくつかの、そしていろいろな場面で起こった失敗や過ちについて論じてきたが、もう一つ大きな過ちの可能性がある。

それは、事業に不都合なことが起こるとやめてしまえば良いという判断である。科学者は困難に直面した時逃げないで解決を目指す。しかし、政財界・官界の人達は責任を怖れて、難しいことはやめてしまおうとする。

これまでの原子力開発の歴史の中で最大の過ちは原子力船開発の停止である。日本が最初に建造した原子力船 ”むつ” が始めての試験運航をした時、洋上で原子炉からの放射線洩れが見つかった。遮蔽不足が原因で高速中性子が洩れた。その時、同乗していた新聞記者が放射能洩れを起こしたと誤った情報を報道したので、付近の漁民達は漁場が汚染されたと誤解し、“むつ”の帰港を拒否した。さらに関係する政治家のミスも重なり“むつ”は帰港地を失ってやむを得ず洋上に留まらざるを得なかった。結局、当時担当理事を命じられた能澤さんの並々ならぬ努力により土地の漁労長を説得できたので“むつ”は帰港できた。しかし原子炉を含む全ての放射線設備を取り外すことになった。日本が世界に誇れる原子力船 ”むつ” は消えた。

この事件はマスコミの誤報道に始まり、政治家の誤った対応が重なって住民の信頼を失ったことに原因があったが、それ以降原子力船の開発は止められてしまった。科学の進歩にはミスはつきもので、それを解決しながら進めている途上で、マスコミの誤報道により住民に誤解を与え、日本の原子力船技術開発の夢は消え、永年にわたりタブーとなった。今世紀は間違いなく海底開発が重要な課題となり、中国などとの競争が厳しくなる。その時、日本に原子力船、原子力潜水船の技術がなければ、またしても宇宙開発のように後手をひくことになる。政財界のリーダーはそのくらいの将来をにらむ力を持って欲しい。

高速中性子炉の開発も「もんじゅ」の事故により中断され、将来の可能性ばかりでなく、使用済み核燃料の後始末など目前の大問題処理の選択岐を否定することになっている。中長期的な視点のない即断即結の政策による過ちを犯している。

高速中性子炉は、核燃料の増殖(Breeder)と,使用済み核燃料の焼却処理(Burner)という二つの機能がある。後者は今日の最大の課題の一つである使用済核燃料の処理にとって最適の技術である。前者はエネルギーを取り出そうとするので経済性が問われるので大型化が求められる。後者は経済性を無視してもやらねばならない課題である。

高速炉の開発については、第8節で論じたように原研で能澤さんを中心に10名弱のチームが基礎から始めて「常陽」の設計までまとめられたが,その後事業は動燃に移されそれまでの努力は活かされないまま「もんじゅ」の事故で止められてしまった。大型炉「もんじゅ」の安全性に問題があるならば、使用済み核燃料の処理だけを目的として「常陽」か、或いはそれ以下の規模の小型高速炉の利用が考えられる。政財界の政策決定には、もっと粘り強く慎重に可能性を検討することを望まれる。

三番目は原研RI製造部の閉鎖である。原研の始めからRI 製造部には優秀な人材が集っていた。このRI製造部が閣議決定によって閉鎖された。理由は良く判らないが、原研にRIを製造して販売することはないということらしい。しかしその結果日本の放射化学が弱体化し、若い研究者を育てる機関が限られた数の大学に減少した。RI 利用の技術は工学・医学などに広がっている。使用済核燃料の処理など重要な仕事を果たす優秀な人材の育成が望まれる。

第四の例は「原発ゼロ」をめざすという政策決定である。

福島原発事故についても、原子力発電をやめようという脱原発の流れが強くなっている。ここまで論じてきたように、この原発事故は政治のミス,体制のミスによる「人災」である。

勿論、科学的技術的ミスもあるが、その部分は改善策が考えられる。例えば、福島第一原子力発電所の炉は沸騰水型であるのに対し、加圧水型である大飯原発は安全性において優れているなどという議論はありうる。全電源喪失に対する対策もできる。炉停止後の崩壊熱を冷やすシステムを多重化すれば良い、等々の考えは出された。しかし、問題の本質はそのような技術的なところではない。54基もある発電炉を支えて運転するシステムの構造である。東電-電事連-保安院-経産省が支配する経済性最重視の政治的構造では不安で仕方がない。

冒頭に論じたように、戦後の半世紀のうちに築かれた日本の社会政治・社会体制・社会心理が改まらない限り危険である。反原発の世論は反科学ではなく反政治体制であると考えたい。

しかし、脱原発の議論は反科学思潮を育てていることに注意が必要である。

脱原発の議論はエネルギー問題だけに閉じられ代替エネルギー開発の可能性、家庭生活、産業活動等におけるエネルギー節約が主題である。そのような課題に取り組むことは大切であり、考える良い機会である。しかし、原発を止めるにしても、その後始末は大変である。解体・廃炉は誰がするのか? 廃炉や使用済核燃料をどう処理するのか?何処に捨てるのか? 廃原発の大事業を進めるには、優れた若い人材の育成が求められる。その時「脱」とか「廃」とかいう字がつく事業に優れた人が集まるとは思えない。もっと前向きの考えが望まれる。

脱原発の議論は反科学思潮を育てていることに注意が必要である。 脱原発の議論はエネルギー問題だけに閉じられ代替エネルギー開発の可能性、家庭生活、産業活動等におけるエネルギー節約が主題である。そのような課題に取り組むことは大切であり、考える良い機会である。しかし、原発を止めるにしても、その後始末は大変である。

17. 原子力科学の中興を
「原爆」と「原発」という二つの悲劇を味わった日本国民の中には「脱原発」の世論が強まっている。「脱原発」が世の流れであるならば、敢えてそれに棹さすことは賢明でないかも知れない。しかし、「脱」原発は「脱」原子力ではない。原子力科学は、中性子科学・放射性同位元素利用・核医学・核融合科学・加速器科学・・等の分野を拓き、基礎科学から産業・医療に広がって人々の夢をかき立てている。

1956年に原子力研究所が創設され、日本の原子力科学の幕が開いたとき、原子力に対する夢と期待は大きかった。日本では未知で未経験の原子力研究は、原研を中心にはじまった。

小型の原子炉を輸入し建設することから始まり、徐々に経験を積みながら。原子炉工学ばかりでなく、放射化学や、放射線管理、中性子物理、中性子利用の療(BNCT)などのプログラムで人材を育て、国産原子炉の建設、高速炉の開発も進めた。

およそ10年を経た1965年頃から動力炉の開発を始めると、間もなく動力炉・核燃料開発事業団 (動燃)が発足し動力炉建設は、原研から動燃の手に渡った。高速炉開発も動燃に移った。この頃から日本の原子力開発はおかしくなった。高速炉「もんじゅ」の事故、福島原発事故などで国民の信頼を失った。

もう一度初心に戻れ。というのが「脱原発」の世論であると受けとめた、福島原発事故を機に、原子力科学の中興にむけた努力を始めたい。

「復興を」ではなく「中興を」である。

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